ラファエル・アルトゥニアン インタビュー

投稿者: | 2013/11/20

例によって某所より。

ロシア語 ⇒ Рафаэль Арутюнян: “Я знаю, что Плющенко знает…”

英訳 ⇒ Rafael Arutunian: “I know what Plushenko knows…” – FSU

A lesson for life

EV: Have you ever regretted that you stopped working with Mao Asada?

AR: I still do. Last time I worked with her was in the end of December 2007: first at the Grand Prix Final, in Turin, where she placed second, having won the free, then at Nationals in Japan. After that, I went to the U.S. We agreed that Mao would come to me on January 14th. We had the preparation to the Worlds in Gotenburg all planned out, but she didn’t come in time. She asked by phone if I could come to her. I couldn’t, because I worked with Jeffrey Buttle. But I sent my assistant to Japan. Ad told Mao that I would still wait for her in Lake Arrowhead.

The thing is, Mao never could properly train in Japan: too many distractions, like any star would have. Mao didn’t like that, she would close off, and it transferred onto the ice… It ended when I told her ultimately that either she comes back, or we don’t work together anymore.

It wasn’t until much later that I found out Mao’s mother was diagnosed with cancer at that time. Her family kept it secret, and they didn’t tell me anything. Of course I would find a possibility to go to Japan if I had known. Or at least, I wouldn’t make such an ultimatum.

It had taught me a lesson. A coach never should make a decision without full knowledge of the situation. Asada didn’t leave me, I made her quit, even though she didn’t want to until the very last moment. Even at the World championships my name was in her protocol up until the beginning of the free program. Mao must have thought I would come to Gothenburg with Jeffrey Buttle and will be by the boards when she skates. And I didn’t come to Sweden at all.

EV: Why?

AR: Because I realized I would have to be by the boards and thus continue my relationship with Asada. So I didn’t go at all, out of principle. Like a fool. I don’t think there was any such case in the history of figure skating: two of the coach’s students become World champions, and he isn’t even at the rink.

*機械翻訳 *————————————————————-*
生活のための教訓

EV :あなたは今まであなたが浅田真央の作業停止したことを後悔したことがありますか?

AR :私はまだやる。獲得した、彼女は二番目に置いたトリノで、グランプリファイナルで最初のフリー、その後日本では選手権で:私は彼女と一緒に働いていた最後の時間は、2007年12月の終わりにあった。その後、私たちは真央が1月14日に私に来ることで合意した米国に行ってきました。我々はすべてのアウト計画Gotenburgで世界に準備していたが、彼女は時間内に来なかった。私は彼女に来ることがあれば、彼女は電話で尋ねた。私はジェフリー·バトルで働いているので、私は、できませんでした。しかし、私は日本に私の助手を送った。広告は私はまだレイクアローヘッドで彼女を待つだろうと真央に言った。

事は、真央が正しく日本でトレーニングができなかったことがない:任意の星のようにあまりにも多くの気晴らしは、持っていると思います。真央はそのように、彼女は閉鎖なりませんでした、それは氷の上に転写された…私は彼女のどちらかが戻ってくるか、我々はもう一緒に動作しないことを最終的に彼女に言ったとき、それは終わった。

それは多くの後、私は真央の母親が、その時点で癌と診断されたことが判明するまではなかった。彼女の家族はそれを秘密にし、彼らが私に何も言わなかった。もちろん、私が知っていたら日本に行く可能性を見つけるだろう。あるいは、少なくとも、私はそのような最後通牒をすることはないだろう。

それは私に教訓を教えていた。コーチは状況の完全な知識がなくても、意思決定を行うべきではありませんでした。浅田は私を残していなかった、私は彼女が望んでいないにもかかわらず、彼女はやめ作ら非常に最後の瞬間まで。でも、世界選手権で私の名前は自由にプログラムの初めまで彼女のプロトコルになりました。真央は、私はジェフリー·バトルとヨーテボリに来るだろうとボードでたとき、彼女のスケートになると思っていなければなりません。そして、私は全然スウェーデンに来ていませんでした。

EV :なぜ?

AR :私は実現しているので、私はボードでなければならないので、浅田との私の関係を継続するだろう。だから私は原則のうち、全く行きませんでした。馬鹿が好き。私はフィギュアスケートの歴史の中でそのようなケースがあったとは思わない:コーチの生徒二人が世界チャンピオンになるが、彼はリンクでもありません。

*某所より転載 *————————————————————-*
エレナ:真央とやるのやめて後悔したことある?
ラファ:今でも後悔してるよ。最後に彼女を指導したのは07年の12月(全日本まで)。それから帰米した。
真央は1月14日に私の元に来る予定だった。ワールド準備の予定を全て作ってあった。
でもその時期までに来ず、私に来れるか電話で聞いたがジェフを見ていたので行けずアシスタントを日本へ送った。
でもまだレイクアロウヘッドで待ってると伝えたんだ。問題はね、真央は日本では決して的確には練習できないことなんだ。
どのスターにもあることだが気をそがれる事が多すぎ る。真央はそれが嫌で心を閉じてしまい、それがリンクの上でも出てしまう、、、。
最終的に彼女にここに戻ってくるか、そうでなければもう一緒にやれないと言った時に(私達の関係は)終わってしまった。あの時彼女の母がガンの診断をされてたと知ったのは後のことだった。
彼女の家族はその事を秘密にし、私に何も言わなかった。 もし知ってたら(彼女のために)日本へいく可能性を探しだしたよ。
少なくともあんな言い方(自分の元に来ないのなら私達は終わりだ)をしたりはしなかった。あれで私は教訓を学んだ。コーチは完璧に状況を把握せずに決して意思決定をしてはいけないとね。
真央が私の元を離れたんじゃない。私がやめさせてしまったんだ。彼女は最後の瞬間までやめたくはなかったのに。
ワールドの時ですらFSが始まる前まで、私の名前が彼女のプロトコルにあった。真央は私がジェフとヨーテボリに来て、彼女が滑る時にはボード脇にいるだろうと思ったに違いない。私はスェーデンには全く行かなかったのだが。

エレナ:何故?
ラファ:行けばボード脇にいて浅田との関係を続けなければならないことになるだろうと思ったからだ。だから主義として行かなかった。
馬鹿だ。教え子の二人(ジェフと真央)がワールドで優勝したのにコーチがリンクにすらいなかったなんて、スケート史でも他にないんじゃないかと思うよ。

号泣。。。

ラファエル・アルトゥニアン インタビュー」への3件のフィードバック

  1. ニコル

    やっぱりそうだったんですね。小手鞠桜様 ありがとうございます。アメリカは州によっては健康保険入ってても6割負担以上の州が多いから、肉親の少ない匡子お母さんはアメリカでは真央ちゃんのサポートどころでは無く負担に成る事を懸念していたんだと思うよ(/_;)/~~私の母も難病で紹介状頂いたのが日本在住の、お医者さん。アメリカは健康なら日本より快適だけど病気だと日本より住みにくい国だと思う。真央ちゃんには言わないと判らない外国コーチより状況を察する日本コーチの方が合ってるかもですね。

  2. sharifa

    涙が溢れ出ました。
    真央ちゃんはいったいどれだけの辛さを抱えて練習して
    いたのでしょう
    なのにあのテレビ局は転倒パネルを用意していた。
    そして日本のマスコミは彼女をイジメ抜いた。
    絶対に許せません。

  3. 木陰の椅子

    初めてコメント入れさせて頂きます。真央ファンにとって、いつも大変に有難く、時に本当に労作でその御努力に厚く感謝をしたいと思います。

     先日デトロイト会場でも、アルトゥニアン元コーチを何度も拝見しました。私は真央ファンとして、先生に多大に感謝している事、今でも良いコーチだと思っている事を一所懸命座席から伝えたい気持ちでおりました。真央の武器はその美しさだ。全てが、美しい。  そんな風に表現してくださったコーチ、本当に有難うございました。あの、世界を感動させた17歳真央の初代ノクターンのプロデュースはフィギュア女子の金字塔として歴史上色あせる事はないと思います!

     さる方の状況分析によると、07GP当時、策略で何かの気持ちの齟齬が生じるように仕組まれたのかもしれないし、脅されていたという由々しい分析をも私たちは目にしておりますね。否定できないくらい、ドラスティックな事が起きました。

     その上、匡子お母様の事がすでにあったのですね。書物によっても伏せておられる事の多いのは想像できましたが、そこまでシリアスだったとは。

     真央を苦しめるもの、あの明るく無垢な真央ちゃんが心を閉ざしてしまうくらいだったのかと、今更ながら何と残酷な事か、と悔しくてなりません。

     応援する事しかできないけれど、悪しきものが駆逐されますように、どこまでも応援しますとも!

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