KODEMARI SAKURA YUKIYANAGI

浅田真央選手と羽生結弦選手を応援する毒吐き検証系ブログ。キムヨナ選手およびデーオタアンチなので注意。

朝鮮半島地域史メモ

自分用のメモ書きです。

韓国と言うか朝鮮半島の歴史で中心なのは、三国時代あたりと李氏朝鮮末期の近・現代史くらい。その他の時代は、半島に超貧しい国がありました。ただひたすら貧乏してました(終わり)で一行で片付いちゃう。

で、三国時代あたりのおさらいメモです。

三国時代(4世紀半ば – 676年)

三國史記 卷第一 新羅本紀第一 始祖赫居世 (原文)

 始祖 姓朴氏 諱赫居世 前漢孝宣帝 五鳳元年甲子 四月丙辰 【一曰正月 十五日】 即位 號居西干 時年十三 國號徐那伐

 先是 朝鮮遺民 分居山谷之間爲六村 一曰閼川楊山村 二曰突山高墟村 三曰 觜山珍支村 【或云干珍村】 四曰茂山大樹村 五曰金山加利村 六曰明活山高耶村 是爲辰韓六部 高墟村長蘇伐公 望楊山麓 蘿井傍林間 有馬 而嘶 則往觀之 忽不見馬 只有大卵 剖之 有嬰兒出焉 則收而養之 及年十餘歳 岐嶷然夙成 六部人 以其生神異 推尊之 至是立爲君焉 辰人謂瓠爲朴 以初大卵如瓠 故以朴爲姓 居西干 辰言王 【或云呼貴人之稱】

三國史記 卷第十三 高句麗本紀第一 始祖東明聖王 (原文)

 始祖 東明聖王 姓高氏 諱朱蒙 【一云鄒牟 一云衆解】 先是 扶餘王解夫婁老無子 祭山川求嗣…

三國史記 卷第二十三 百済本紀第一 始祖温祚王 (原文)

 百濟始祖 温祚王 其父鄒牟 或云朱蒙 自北扶餘逃難 至卒本扶餘 扶餘王無子 只有三女子 見朱蒙 知非常人 以第二女妻之 未幾 扶餘王薨 朱蒙嗣位 生二子…

南部の三韓は、馬韓諸国のなかの伯済が百済に、辰韓諸国の斯盧が新羅となり、弁韓諸国は統一した政権を形作ることなく伽耶諸国となった。
・高句麗( – 668年)
 ツングース系(夫余人の一部)民族による国家
・百済( – 660年)
 扶余族の支配層と被支配層の韓族の国家。百済は唐・新羅連合軍によって、完全に断絶させられており、今の韓国人とは関係のない国家とする見方もある。
※『旧唐書』東夷傳百済「其地自此為新羅及渤海靺鞨所分、百済之種遂絶。(その地の者は新羅および渤海や靺鞨へ逃げ、遂に百済の種は絶滅した。)」
唐による百済の冊封

・新羅
唐による新羅の冊封

・伽耶諸国( – 562年)
伽耶諸国はその時々の状態から「六伽耶」「浦上八国」「任那十国」などという名でも記され、その領域の所有を巡って百済と新羅とが争ったが、最終的には6世紀中頃に新羅に吸収された。伽耶諸国の呼称については、新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ、中国・百済・日本(倭)においては加羅あるいは任那と表記されることが多く、広開土王碑文には「任那加羅」という並列表記も見られる。日本の学界ではかつては任那という呼称が支配的であったが、1980年代後半からは「伽耶諸国」と呼ばれることが一般的となっている[24]。伽耶諸国の地域(半島南部)は史書[25]や碑文[26]の記録から日本(ヤマト王権)の強い影響力があったことは有力視されているが、その影響力の範囲を巡っては異論も多く存在する。

高句麗と百済が結んで新羅を攻め、新羅は唐の全面支援を受けて百済を滅ぼし、高句麗を北から唐、南から唐・新羅で挟み撃ちにして滅ぼす。

百済人消滅。

今の韓国人は新羅人の子孫と言われていて、現代でも慶尚道(元新羅地域)出身者がエバリくさって、全羅道(元百済地域)出身者を差別しまくってます。
天皇家が渡来人の血筋っていうのが、この百済人。ですが、そもそも何千年前の話やねん!ってことで、今の韓国人とはまるっきり違いますよ。
大体国が滅んだの建国したのって時には、人も大幅に入れ替わっています。しかも人の流動が激しい大陸ですよ?


統一新羅(676年-935年)

唐が西方で吐蕃と戦争している隙に反乱を起こして、676年に唐の行政府に駐留する役人や警備部隊を奇襲して殺害、旧百済領と旧高句麗領の南半分を合わせて朝鮮半島をほぼ統一することに成功した。

韓国史では渤海も同じ民族だと言い張って、『南北国時代』とか言っちゃってますが、違いますよ?


後三国時代(892年 – 936年)

新羅が王位継承戦争で分裂状態になり、後高句麗の王建が高麗を建国。新羅を吸収し、弱体化した後百済を滅ぼして統一。

新羅人は高麗に同化して消滅。


高麗(918年-1392年)

帰化人
高麗時代前時期にかけて異民族が帰化し、23万8000人に達するという説もある。
朝鮮王朝実録世宗5卷1年(1419年)8月5日

帰化した漢族は国際情勢に明るく、文芸にたけていて多くは官僚となった。帰化した渤海人は契丹との戦争に参加して大きい功績を立てた。崔茂宣に火薬製造技術を伝えた人物の李元も中国、江南地方出身帰化人である[8]。帰化した女真族は北方情勢を情報提供したり城を築いたり、軍功をたてて高位官職になった者もいる。李氏朝鮮を建国した李成桂は東北面出身でこの地域の女真族を自身の支持基盤とした。開国功臣だった李之蘭はこの地域出身の女真族指導者として同北方面の女真族と朝鮮の関係を篤実にするのに重要な役割を担当した。


元朝(モンゴル)の支配(1232年~)

1232年 モンゴル帝国の侵略始まる(→モンゴルの高麗侵攻)。
1259年 高麗の太子(のちの元宗王)がフビライに降り、モンゴル帝国(元)の属国化。
1260年 忠烈王は、大ハーンに即位したフビライの娘婿となる。これ以来、代々の高麗王の世子(世継ぎの太子)はモンゴル貴族や時には皇族の婿となって元朝の宮廷で暮らし、父の死後、高麗王に任命されるのが習慣となる。高麗王の母は、みなモンゴル人となり、4代の高麗王は元皇帝の娘婿となる。

モンゴルによる高麗併合
征東行省が臨時機関から常設組織へと変質した1287年以降は、政治・軍事に加え行政も征東行省によって処理されるようになり、高官以下行政官の人事権も征東行省が握り、賦税も元の朝廷へ収めるよう変更されるなど、旧高麗は直接統治下(羈縻支配体制であり、他の行省ほど集権的ではなく、一定の自治権を残していたと考えられている)に組み込まれていった。

モンゴルの高麗侵攻は、約40年間で6回侵攻。高麗朝廷は国民を見捨てて江華島に逃げ込んだため、高麗国内はモンゴルにあらされ放題。
全面降伏後、旧高麗領の大部分がモンゴルの直轄領になる。

ところで、高麗が元に征服された時、20万人強制連行とか教科書に書いてありますが、モンゴルに謝罪と賠償は要求しなくていいんでしょうか?
まあ古~~~い話ですが、まだ千年経ってないし。侵略されたら千年恨むんでしたよね?

また、宮脇淳子先生の本には、60万人の高麗人を連行して、遼陽行省の農地に入植させたともありますが。。。。。
いいの?謝罪と賠償は?


李氏朝鮮(1392年-1910年)

廃仏崇儒
李氏朝鮮の文化政策は、一言でいえば儒教の一派である朱子学を尊重し、仏教を弾圧したと説明される。しかし、太祖・李成桂が仏門に帰依していたため、本格的な廃仏運動が始まるのは第3代太宗の代からである。この時、朝鮮半島では多くの仏教寺院が廃され、242の寺のみが国家の統制下に残された。第4代世宗の時代にはさらに厳しくなり、寺院の数はさらに減らされ、仏教寺院が所有していた土地や奴婢の多くが没収された。このため、高麗時代の仏教遺跡が破壊されたり、仏像や文化財などの多くが海外へ流出した。

民族構成
民族面では、建国の時点で朝鮮国内の北部にかなりの数の女真人が住んでいたが、李氏朝鮮王朝は彼等を国民として正当に扱うことはなく、国外の女真と同じように激しい蔑視や差別、迫害の対象であった。彼らは朝鮮政府と国外の女真との関係が悪化すると追放されることもあったが、次第に朝鮮人へ同化させられていったと思われ、この過程に於ける混血や言語的影響については詳しいことは分かっていない。
朝鮮末には朝鮮民族の均質化が進み、19世紀には逆に朝鮮民族が国境を越えて清やロシアの領域に移住していった。このような民族均質化の結果、王朝末期から現在にかけての朝鮮・韓国社会で少数派の民族コミュニティを形成しているのは華僑のみとなっている。なお現在の北朝鮮はしばしばナショナリズム高揚のため、「単一民族国家」を強調しており、韓国でも保守派、民族主義者を中心に根強く他民族との混血の事実を廃し、「単一民族国家」という意識が残存しているが厳密には多民族国家であり、朝鮮民族自体が東アジアだけで見ても極めて最近生まれた民族であることが分かる。
初等教科書、高麗時「23万帰化」言及もしない: Nate News

結局のところ、朝鮮(韓国)人っていつからいるのか?と言うと、李氏朝鮮以降ってことじゃないかな?
半万年の歴史とかのたまってますが、せいぜいその10分の1くらい。

韓国はとにかく、大陸を支配したことにしたくて、高句麗とか渤海を韓国人の国と言い張ってます。
李氏朝鮮を建国した李成桂太祖は女真族とも言われているので、満州もウリの国だと言うのかな。すると清朝もウリの国け?
でも現実は、朝鮮半島の南半分のさらに半分の南東部がルーツ。
遺伝子的に見ると、現在の北朝鮮とも人種が違うとかなんとか。。。。。

歴史問題は日本より先に、中国とよく話し合ってね。覇権主義の中国は朝鮮半島はまるごと俺のものアルっていうだろうけど。


最近韓国人が書いた韓国現代史の本を斜め読みしたんですが、私は朝鮮民族は新羅人の子孫だろうと思っていて、韓国でもそう認識していると思っていました。慶尚道(元新羅地域)出身者の全羅道(元百済地域)出身者差別とかあるし。
ところが、朝鮮半島を統一したのが新羅でなく高句麗だったら、満州は今でも我々の国土だったとか書いてあって、椅子から転げ落ちてしまいました。
高句麗が滅亡して、高句麗人がシナ、朝鮮半島、日本に同化していった時、高句麗人が同化したのは韓国人だけと思ってるウリナラな人がいて、お得意の時空を超える手法で高句麗は韓国人の国と主張してる話は聞いたことがありました。韓国人の血は逆流するんかい!とツッコミが入ってた。
どうやらウリナラファンタジーがさらにパワーアップして、夫余人=韓国人、ひいては満州は韓国人の国になってたらしい。
夫余人が韓国人じゃないと、高句麗と百済が韓国人の国じゃなくなって、日本人の起源は韓国人の主張もできなくなるので、根拠もないのにエバリ散らしたいがために、あれもこれもウリのもの♪状態らしいです。
あんた、明が滅亡して満州族が清を建国した時、北の野蛮人とバカにして朝貢を拒んだせいで、ホンタイジにどえらい恥をかかされたのに、今では満州わが領土ですか。土下座させられた仁祖は間違いなくご先祖様なのに、節操ないね。三田渡の盟約は韓国の歴史教科書にも書いてあるよ(確認した)。
でも新羅も韓国人の国だと思ってるよね?
アホか。

李氏朝鮮は14世紀末の建国以来、明の朝貢国であったが、17世紀に入ると満州(中国東北部)で女真族が建てた後金が勃興、李氏朝鮮と対峙するようになった。1627年には後金が朝鮮へ侵攻した(丁卯胡乱)が膠着し、両者が兄弟関係を結ぶことで講和した(丁卯約条)。しかし朝鮮では古来から同国にも朝貢に来ていた女真族を「北狄/オランケ」(野蛮人)と蔑すむ考えが多く、とりわけ保守的な儒者は後金との決戦を唱え続けるなど、火種はくすぶっていた。
後金は1636年、ホンタイジが皇帝を称し、国号を清と変更すると、朝鮮に対して朝貢及び明への派兵を求めた。官僚派閥である北人の大北派の主張に沿って中立政策を取った前王の光海君と違い、華夷思想を重んじた西人に支持されて即位した王・仁祖にとって、永く朝貢を受ける相手であった女真族の要求は到底呑めるものではなかった。
仁祖が朝貢を拒絶し、清皇帝を認めないと公表すると、激怒したホンタイジはただちに朝鮮への親征を行った(丙子胡乱)。清の圧倒的な兵力の前に各地で敗北を重ねた朝鮮軍は開戦後40日余りで降伏し、和議が持たれた。講和内容は11項目に及び、清への朝貢と清からの冊封、明との断交、朝鮮王子を人質に差し出す、膨大な賠償金など屈辱的なものであった。そればかりか仁祖は三田渡で、ホンタイジに対し三跪九叩頭の礼(三度跪き、九度頭を地にこすりつける)をもって清皇帝を公認する誓いをさせられる恥辱を味わった(三田渡の盟約)。
ホンタイジは、自身の「徳」と仁祖の「過ち」、そして両者の盟約を示す碑文を満州語・モンゴル語・漢語で石碑に刻ませ、1639年に降伏の地である三田渡に建立させた。これが「大清皇帝功徳碑」である。

碑文大意
・愚かな朝鮮王は、偉大な清国皇帝に逆らった。
・清国皇帝は愚かな朝鮮王をたしなめ、己の大罪を諭してやった。
・良心に目覚めた朝鮮王は自分の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った。
・我が朝鮮はこの清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、また清国に逆らった愚かな罪を反省するために、この石碑を建てることにする。

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